市議団だより−豊田のまちから
【09.08.09】(特集)戦争の記憶…「私は、模擬原爆の投下を目撃しました」(インタビュー)
新日本婦人の会県本部役員Mさん(旧挙母町大字今 出身)へのインタビュー
◆1945年8月14日、終戦の前日に「模擬原爆」が豊田市に投下されました。
当時、軍需工場となっていたトヨタ自動車を攻撃目標にしたものでした。爆弾は3発。1つはトヨタの工場に命中。2つ目は工場近くの住宅地に。3つ目は、矢作川(渡合町付近)に落とされました。
ちょうどその時、川遊びに来ていて、爆弾投下の近くで目撃したMさんに当時の様子を語っていただきました。
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当時、私は小学校3年でした。現在の根川小学校(当時は分校でしたが)に片道4キロを歩いて通っていました。空襲警報が出て、学校から帰る時に、艦載機から機銃攻撃を受けて、上級生に腕がちぎれるほど手を引かれて逃げた記憶があります。
8月14日の当日は、夏休みで、妹や友達と一緒に矢作川に泳ぎに来ていました。突然、空襲警報が鳴ったと思ったら、すぐに爆弾が落ちてきました。川の中州に落ちたようでした。すごい音がして、ばらばらと何かが上から降ってきました。目を開けて、土手から川を上がろうとしたら、川の対岸の渡合町のほうに火が広がるのが見えました。
あわてて服を抱えて水着のまま家に逃げ帰ったら、家の近所の学校の土手にも爆弾による火が広がり、近所の人たちが集まって火消しで大騒ぎになっていました。後で、これが、模擬原爆だとわかって、さらに恐ろしい思いがよみがえりました。
当時、トヨタ自動車の本社工場は、荒野にぽつんと建っていて、回りに何もなく、軍需工場として攻撃目標にされたのだと思います。軍事関係の施設の近くで、住民が巻き添えになる戦争の怖さをしみじみ感じました。
戦争は絶対にいやだという思いは、この時、骨の随まで染みこんだのだと思います。今、女性団体の役員として平和運動に取り組んでいる、私の原点だと思います。