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【02.4.8】有事法制化を許さない決意こめ、豊田の戦争遺跡を学習調査 ★画像あり

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四月七日、豊田市平和委員会と新日本婦人の会豊田支部の呼びかけで、豊田の戦跡の学習調査がおこないました。豊田市平和委員会長の冨田好弘さんによるレポートを紹介します。
当日は小雨の中十名の方々が参加されました。今回は、私たちの住む豊田市にある元日本海軍航空隊の二つの戦争遣跡を調査学習しました。日本海軍航空隊は、真珠湾の米海軍基地を空爆し、第二次世界大戦を開戦決行したものです。その航空隊の飛行場基地が第二次世界大戦末期にこの豊田の地につくられたものです。

一つは岡崎海軍航空隊(豊田市南部・上郷地域と一部岡崎市、安城市)で、もう一つは名古屋海軍航空隊(豊田市北部・伊保原)です。
準備するに当たって、当時、直接関わられた数名の方の貴重な協力が得られました。その一人・氷田薫さん(元海軍航空隊員・豊田海友会)は「体験を語りたかった。こういうことに関心をもっている人もいてくれたんだね。歴史の中であった事実を知り、後生に残してほしい」と語られしました。

岡崎海軍航空隊は、四十年かけ育てた美田(四四六ヘクタール)を地主関係者七一一名から「国家総動員法」の名のもとに「強制収容」し、いっきに三本の滑走路、巨大な航空隊兵舎へ変えてしまいました。そのために三000人をこえる朝鮮半島の人と四五0人の囚人を動員して、突貫工事で作ったという報告もありました。また「同航空隊」は八期生まで一二000名の予科練生を実戦部隊として戦場へ送ったこと、終戦間近には沖縄へ特攻隊として出撃もあったと明記されています。戦後は半年間、米軍の管理下に置かれ、この飛行場から米兵三万人程が本国に帰還するのに使われ、その後、苦闘八年かかって、現在の農地等へとなったこともわかりました。さらに、特攻隊員の碑「若桜の碑」を訪ね、矢作川から上水ポンブ場と貯水タンクのあった野田広三郎さん宅を訪ね、当時の怖くて苦労したお話しを聞かせていただきました。
名古屋航空隊は軍需工場だった愛知時計電機の飛行練習機性能試験地として造成され、その隣を霞ケ浦海軍航空隊分遺隊練習飛行場として軍が買収、名古屋海軍航空隊となりました。戦局が激しくなって、九九式艦上爆撃機(愛知時計電機製作)による攻撃訓練も行われ、さらに菊水作戦に伴い特別攻撃訓練員の養成がされ、急降下突入訓練が行われるようになりました。この訓練部隊が熱田神宮の草薙の剣にちなんで「草薙隊」と命名されました。一九四五年四月に三陣にわたって九州国分基地を経て片道燃料で米軍艦へ突入、五六名が特攻隊として戦死しました。敗戦後、米軍が進駐し、その後は農地として開拓されていきました。当時、滑走路は二本あり、市街地と結ぶ道路は「海軍道路」と呼ばれていました。
参加者は神風特別攻撃隊革薙隊の碑や、そのまま残されている通信壕跡、危険な状態にある防空壕跡、地下壕跡など直接見聞きし、戦争体駿と遺跡を語り継ぎ「有事法制化」阻止を誓い合いました。 
2002年豊田民報4/21号より


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