市議団だより−豊田のまちから

【09.09.03】語り継ぐ戦争の記憶…投稿「『原爆許すまじ』は私の原点」

   豊田民報に投稿された記事を紹介します。
 
◇語り継ぐ戦争の記憶〜「『原爆許すまじ』は私の原点」
 元日本共産党県書記長 本村 映一(市内青木町在住)
 
 十八歳まで過ごした長崎市には、さまざまな思いが錯綜します。中でも原爆投下の瞬間に諏訪神社の灯篭に上って遊んでいた五歳の八月九日、今でもあの「ピカッー! ド、ド、ド、ドーン!」の大音響、道の砂塵を巻き上げた突風、身体に感覚として残っています。
 住んでいた諏訪神社近くは、爆心地の浦上との間に、高さ約四百メートルの金比羅山があったために、直接の被爆からは免れたのです。小学生のころ「長崎は上り坂と下り坂のどっちが多いか?」(正解はもちろん同数)と“なぞかけ”をやるほど、長崎は起伏の多い街並みであったため、広島よりも直接の被害は少なかったそうです。
 母の話によれば、原爆投下の瞬間から長崎市内はパニック状態に陥りました。その日から二、三日は近くの防空壕でくらしました。その防空壕に傷ついた被爆者が浦上から逃れてきたのです。火傷のひどい人々と同じ防空壕で夜を過ごした時、「水がほしかー」と叫ぶ声が充満したそうです。幼い私が「臭いよー、臭いよー」と叫び、母は「映一、なんば言うとね。大怪我した人のことを考えんね!」と何回も叱りつけたらしい。
 原爆投下によるパニックがやっとおさまるころ、今度は市内で「疫痢」(エキリ 子どもの重症の赤痢)が大流行しました。二つ下の私の弟はこの疫痢で幼い命を落としました。終戦から三カ月ほどたって、南太平洋のニューギニア戦線から命からがら帰還した父は、弟の位牌を抱きしめて号泣したそうです。
 その後私たち家族が、市営住宅に移ったこともあり、西浦上小学校、西浦上中学校、長崎西高といずれも爆心地に近い学校に通いました。クラスの友の中には、被爆の傷跡がケロイドになった人も少なくありませんでした。「どうしてこんなことが起きたのか」と子ども心に強い疑問を持ちました。
 今でも「原爆許すまじ」を歌うと胸にこみ上げるものがあります。高校卒業後、家庭事情で二年間働いたあと大学に入った私は、共産党員の道を選びました。
 「原爆許すまじ」は私の原点となりました。
 

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