市議団だより−豊田のまちから

【09.11.14】伝えたい 戦争の恐怖と惨劇

終戦近い頃、北海道・夕張出身の私は、当時17歳。国鉄の室蘭線で機関助手として釜焚きの仕事をしていました。(乗っていた機関車はあのD51 です。)
室蘭には当時、銃弾などの兵器の製造工場や、戦艦の砲塔、戦艦大和の装甲板の鉄鋼所があり重要な町でした。船や機関車・住宅はいつ狙われてもおかしくない状況で、毎日、空襲警報におびえながらの暮らしでした。海上からの攻撃を受けたら、ひとたまりもありません。戦艦から次々と撃ち込まれる巨大な砲弾が、あたりを地獄のような惨状にしていました。私は攻撃を避けるため、トンネルに逃げ込んでいました。
防空壕を掘る仕事をしていたある日、いきなり「敵機!敵機!」と叫ぶ声が聞こえ、その直後、私たちを襲ったのは、アメリカ軍の空母から飛び立ったグラマンの機銃掃射でした。その時の恐怖は今でも忘れられません。
 

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